この資料は、当HPにリンク頂いている山車・だんじり悉皆調査管理人、いわねえさん著の
「泉州地車往来」からの抜粋です。掲載にあたっては、いわねえさんに許可を頂きました

感謝\(^o^)/

当時の売買金額等、一部表現を変更しています。
また、内容は「泉州地車往来」編集当時のもので、新調、復活等、現在とは異なります。


資料の無断転載、再配布等の無断使用は固くお断り致します。

        第十一章 泉南市
 
  ▼信達神社(金熊寺七九五)

  昭和三十八年頃より交通事情や櫓がすたれたこともあり、
現在一台の櫓の宮入もなく神事のみの寂しい祭りとなったが、
かつて権現祭として賑わった。
惣社金熊権現宮は、明治元年の神仏分離令により信達神社
と金熊寺観音院に分離した。権現祭は信達荘十三ヶ村(北野・
中小路・大苗代・市場・牧野・六尾・金熊寺・中・幡代・馬場・
樽井・岡田・岡田浦)の祭禮で、記録では文化六年(一八一0)
に神輿渡御許可が出ている。日時は旧暦九月十五、十六日に行われ、
宵宮の十五日に村々で櫓を曳き、本宮の十六日は、九時に神輿
三台が権現宮を出発し、樽井浜着が十一時と決まっていた。
実際は三十分程度遅れるが、汐かけの神事が終わり還御の時、
国市場(現・泉南中学校)に立ち寄り、十三ヶ村の座衆およそ
二四00人位の大宮座を行った。この古い歴史を持つ権現社の
祭りも、明治維新後、惣社・村社二社の維持の困難などにより
惣社を離れて村社のみとする村も出てきて、明治四十三年を最後
に廃絶した。

 金熊寺

 真言宗仁和寺派金熊寺の門前集落として発達とた村。
明治九年の人口二六一。
 櫓は大正初期の作。大工は貝塚三ツ松の人。昭和四十頃より
休止し、かつての青年集会場。現在の精米所の奥に解体保存さ
れている。また先代櫓も在ったという。

 信達六尾

鎮守は一の宮神社・菅原神社
明治九年の人口二二二。
 櫓は現在無し。
先代は大正以前に作られたが、戦後一〜二回曳くが休止し、
昭和四十年代後半に阪南町貝掛に売却。
その後、阪南町波有手を経て波有手の個人が所有。
コースは山手は宮さん。下手は佐田のあたりまで曳いたという。
櫓部屋跡は老人集会所になっている

 信達牧野

 地内の熊野街道沿いに熊野九十九王子社の一つ、
信達王子社跡が在る。
 村内に佐田(バス停では西六尾のあたり)が在る。
明治九年の人口四九二。
 櫓は昭和七年新調。大工は向井寅太郎。彫師は住吉在住の某。
昭和三十八年が最後の宮入で、その後は所曳き。

 信達岡中

同郡内に同名村が在るため、明治十七年に従来の中村に地内
岡とを合わせて岡中と改称。神社は岡中神社。
明治二十二年の人口七五六。
 櫓は昭和九年新調。
先代は昭和九年頃に樽井の人に売却。一年後に樽井北組に売却。
 阪南市山中の言伝えでは山中の先代櫓は岡中より購入し明治
末期に解体したという。

 馬場

鎮守は高城神社
明治九年の人口二六三。
櫓は昭和十二、三年頃新調。
先代は室戸台風で壊れた。

 幡代

鎮守は稲荷神社・久保神社。
明治九年の人口三五三。
櫓は明治年代に新調し平成二年に阪南市旭町より購入。
先代櫓は大正初期に新調し保存中。
 大工は大苗代の人。
昭和五十八年地元の森下建設により修復。(四本柱、台場、輪新調総洗)
 昭和六十二年阪南市黒田の輪購入。
 先々代は川にはめて壊れた。
 昔の櫓部屋は老人集会所の隣。

▼里外神社(岡田一一四七)

 岡田は陸方、浦方の二地区から成っていた。
境界線は南海本線より山手の古道である。
明治九年人口一五八一

a 陸

上岡田と称した時も有る。宮本に当たる。
櫓は明治中期に地元で製作。
昭和六十二年芯棒を樫に変え、太鼓を絞め直した。

b 浦

 北出・西出・中出と三地区に分かれているが、自治会は一本化している。
 昔は北出・西出は荒く、中出はおとなしかったといわれる。

 ア・西出(岡田 壱)

 櫓は大正八〜十一年頃新調。大工棟梁は自然田の大寅。
彫物責任者は美濃村松雲。
 先代は陸に行ったらしい。
 当地区が岡田では一番早く櫓を作ったと伝えられている。

 イ・中出(岡田 弍)

 櫓は明治中頃新調。大工不詳・彫物責任者は美濃村松雲。
岡田の回船問屋が寄って作ったと伝えられている。

 ウ・北出(岡田 参)

 櫓は明治期阪南市石田新調。平成二年購入。先代は昭和十年頃
阪南市新町より購入。昭和五十年頃より休止し、現櫓購入につき解体処分。
 先々代は鳥取中より購入するが室戸台風のため壊れる。
さらに往古より有り。

▼茅渟神社(樽井二一四四)

 祭禮は旧暦九月十六・十七日→十月十七・十八日→十月十・
十一日→十月九・十日と変更してきた。また神社名はかつて八王子神社と称した。
明治四十二年の戸数三九六・人口一七三一。
 神輿は昭和六十一年新調。京都のみこし店より購入。
 先代は倉庫に入れ保存。
 櫓はかつて六台出たが今は四台出る。樽井の櫓は他地区と
違う点が二つ有る。一つは地区割りではなく講によって櫓が
出ることと、もう一つは他地区よりかなり大きい櫓ということである。

 a 獅子講

昭和二十六年新調。阪南町波有手の大工の作。
先代はジェーン台風により破損し焼却

 b 戎福中講

講戎・若戎の二つの講の合併により成立。
櫓は明治中期にはすでに在り。

 c 宮元講

提灯講・吾妻講の合併により成立。
櫓は明治初期に新調。
昭和六十二年、植山工務店で修復。

 d 濱中講

当講は文化六年(一八0九)に新開沼田西側開拓のため講成立
 櫓は明治六十九年新調。大工棟梁不明。彫師は西岡某。
昭和五十七年修復。
 文献では(一一九)文政二年八の「矢倉諸記録(保存書)」が
有るので、これ以前より在ったと思われる。
この櫓は現櫓新調に伴い焼却処分になる。

▼一丘神社(信達大苗代三七三)

氏地は大苗代・北野・中小路の三ヶ村で、櫓二台が出る

 大苗代

明治九年人口二四三
 櫓は昭和十一年新調(七年説も有り)。
大工棟梁向井寅次郎。昭和六十年台場と輪を改修。
地区内のみでなく一丘団地内を回ったり、市場・牧野と三台が
JR和泉砂川駅前に集まり小栗街道をパレードする。
 先代は下(阪南市鳥取中?)の中古櫓を購入するが老朽化の
ため砕いた。その後一、二年は休んだという。

 北野

明治九年人口二七七。
櫓は昭和十二年新調(九年説も有り)。大苗代の櫓より一年新しい。
大工棟梁小川光造・稲葉久吉。彫師は宮沢という堺の彫師。
 先代は大正四年頃に多奈川より中古の櫓を購入するが、老朽化のため壊れた。
先々代は地元の大工が作った櫓が在ったが明治四十二、三年頃に
祭りが下火になったので解体し彫物を売った。


北野 先代のやぐら

 中小路

 明治九年の人口一九三。
 鎮守の厩戸王子社は明治四十一年十二月九日合祀。
今でも祠は有る。
 櫓は明治末期には廃絶。
 樽井方面に売却したらしい。

▼市場稲荷神社(信達市場一四七一)
 
熊野三山行幸に際し止宿所として御所が設けられたことから古くは御所村と称した。
 明治九年人口八九六。
 櫓は大正年間の作。
 正和五十六年岬町上孝子より購入し改修。
 かつてコースは小栗街道を通り北は大苗代の辻。
南は牧野の境界だったが、今は大苗代・牧野と共にJR和泉
砂川駅前まで連合曳きをする。
 先代は昭和二十四、五年頃に新調するが、昭和五十二年、子供の失火により消失、
先々代は老朽化して若衆が樫井川にはめた。そこで市ほ開いて売却した。

▼諏訪神社(童子畑)
 
明治九年の人口一六二。
櫓は明治四十年頃新調。昭和五十二年に十三年振りに曳行復活。
尚、かつて二台のやぐらが村に在ったていう説も有る。

▼山神社(楠畑)
 
明治九年の人口一四0。昭和五十八年戸数二一・人口七二。
櫓は大正六、七年に阪南町自然田上東組より初代にあたる櫓を
購入するが、昭和三十年代初期より休止。明治三十四年生まれの
故人の言伝えでは、粉河街道より村までの一・八キロメートルの
道は狭いので、近隣の村の人の助けを得て方輪を外して運んだと
いう。

▼八坂神社(葛畑)
 
古くは葛川端と称した。出村に堀河が在る。
明治九年人口一六九(堀河含む)。昭和五十八年戸数二一・
人口七二(堀河含む)。

a 葛畑

櫓は解体保存。台場、輪は野ざらしだが、それ以外は弥栄神社
に屋根を作り雨に濡れないようにしている。この櫓は昭和三、四
年石田方面より購入し(他に大正五、六年に自然田東組説も有る)、
昭和二十二、三年頃に解体された。尚、初代である。
   
     弥栄神社       やぐらのコマ  組物は総上がり、鬼板は飾目、かなり特徴のあるやぐらだったようです

 b 堀河

 葛畑の出村で堀河筋に在ったが、昭和三十七年以来進められて
来た堀河ダム建設に伴い水没することになり、十二戸のうち二戸 は村に留まり、
七戸は佐田の交差点の海側に移住。
かつて櫓が在ったといわれる。

▼種河神社(新家一0八七)
 
 氏地は新家・兎地・別所で例祭は日は十月十三日→十一月十日と変更した。
 かつて新家より櫓六台が宮入りしたが、今は子供神輿のみである。

 新家

 古くは三谷荘と称し十四集落に分かれていた。.
元和元年(一六二三)に六集落に集約編成した。
 明治九年人口一一六0。
 子供神輿は手作りで、二地区より三台出している。
 上・・・昭和五十四年頃作成。二基在る。
 宮・・・昭和五十七年頃作成。
 櫓は六地区ごとに在ったが、昭和九年の室戸台風で廃絶した。

 a 上村(元の前川・笠岡・上之原)

 「日輪山清明寺代々記」を解説した「新家古記の世界」より二つの事項を抜書きする。
@上村の荷ない屋形(担い地車?)ができたのは明和四年(一七七六)である。
  新調費用は五百目。費用の中には金物も含んでいる。
  尚、この荷ない屋形は文化三年(一八0六)には修繕した。
A上村の引き屋形(櫓?)が始まったのは文化年間(一八0四〜)
  の初めである。福嶋(現在の阪南市尾崎)より購入し、九月十六日より曳き始めた。
  このように古い歴史を持つ上村の櫓も室戸台風で廃絶したままである。

 b 中村(元の土手岡・中の原)

 室戸台風で廃絶。

 c 下村(元の亀岡・下の原)

 室戸台風以前に廃絶。

 d 野口(元の口畑・苗代)

 室戸台風で廃絶。

 e 高野(元の文武谷・奥垣)

 宮村と仲が悪く喧嘩をするので明治中期〜大正初期に売却。

 f 宮(元の山下・宮原)

 高野村と仲が悪く喧嘩をするので売却。泉佐野市南中岡本の櫓は
昭和初期に宮より購入したと伝えられる。

 兎田
 
鎮守は八坂神社。明治四十一年十月十九日に合祀したが所曳きのみ。
 明治九年の人口四〇七。
 子供地車は昭和六十年新調。地元の大工作。
 地車は明治三十七年〜四十四年所有。今も在れば泉南最南の地車
である。この地車は岸和田市磯之上町より購入するが、
泉佐野市長滝東ノ番に売却したと伝えられている。

 別所

 鎌倉期に見える地名。鎮守の八坂神社は明治四十年十月十九日合祀。
 昭和五十八年戸数十二・人口四五。
 獅子舞が昔出たらしいが、今は神事のみ。

▼鹿島神社(鳴滝一一)
 
 明治四年滝村を改称して鳴滝村となる。当村は久しく大阪府下
最小面積(一五四平方キロメートル)の自治体であったが、昭和
三十一年泉南町の一部になる。
 大正九年戸数二五七・人口一三一八。
 櫓は現在一台で鳴滝として曳行している。昔は上・下の二台。
 上・・・現在の櫓
 下・・・分解して神社に奉納自然消滅
 櫓は今となってはどちらか判らないが、一台は桑畑・もう一台は
金熊寺より購入したと伝えられている。昭和三十五年頃までは十月
十九日に連合曳きしていたが、その後十五年程の休止期間となり、
やっと昭和五十年に上(現在の櫓)は復活し、さらに昭和六十二年
に修繕するが、下は休止中に分解して神社に奉納し自然消滅となる。
往古は櫓が四台在ったと伝わる。

▼男神社(男里一〇六五)

 男里

 男里は淀藩領で「淀方」と呼ばれた南組と岸和田藩領で「岸方」
と呼ばれた北組より成っている。ただ、下中小路は北組に属してい
たが、数で祭り行事で喧嘩になれば南組が負けるので、公正を期すために南組に転属した。
 明治九年人口九六五。
境外摂社浜ノ宮(浜天神)へ神輿渡御がある。明治になるとまでは
浜ノ宮までの道が無く下山のお旅所に渡御をした。櫓は永らく南組
の櫓を合同で曳いていたが、昭和六十三年北組の櫓を修復し、南北
の区別をせず合同で曳いている。現在同じ校区(雄信達小学校)の馬場と連合曳きもする。

 a 南組

 櫓は明治十六年新調。大工棟梁徳兵衛。彫師大寅。
先代は現櫓の購入に伴い売却

 b 北組

 岡中の櫓を買った樽井の人より昭和十年に購入。
第二室戸台風以来休止していたが、昭和六十三年吉為工務店にて
修復。その時の彫物は筒井一門が刻んだ。
 先代は波有手もしくは桑畑より購入したが(波有手説が有力)、
室戸台風で櫓部屋ごと壊れた。
さらに往古より在り。



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