牧野やぐら新調記念誌


            


このヘージは「牧野やぐら新調記念誌」からの抜粋写真を載せています。

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2003年11月11日
右斜め前方からの全景

2003年11月11日
正面

2003年11月11日
後ろ正面

2003年11月11日
左側面

2003年11月11日
右側面

2003年11月11日
左斜め後方

2003年11月11日
右斜め後方

2003年11月11日
正面 [上]日吉丸誕生 [柱巻]昇竜 下龍 [板高欄]源頼朝 富士の巻狩り、頼朝 本陣
[日吉丸誕生]
赤ん坊の父は、筑阿弥と号していた中村弥助で、その妻が日吉権現に祈って男の子が欲しいと願かけたが、
効験あってか、ある夜の夢に日輪が懐に入るのを見てたちまち懐妊したとのことである。生まれたところは
尾張国愛智郡中村といい戸数わずか五、六十戸の貧しい、小さな村の一角である。

2003年11月11日
正面右 [脇障子]本能寺の戦い 森蘭丸 [小脇板]牛若丸 鞍馬山にて修行す [板高欄]勢子の活躍
[本能寺の変]
天正十年(1582年)六月二日早朝、明智光秀は、一万三千の軍勢を率いて信長の宿である京都本能寺へ討ち入る。
しかし信長勢は軽装で小姓衆約三十人。信長は味方が、ほぼ討死し尽くすまで弓を取って防ぎ戦ったが、やがて
弓の弦が切れてしまい、目前まで敵がせまってくる。最後は寺に火をうち信長は自害する

2003年11月11日
正面左 [脇障子]本能寺の戦い 織田信長 [小脇板]牛若丸 弁慶 五條大橋の出会い [板高欄]新田四郎の猪退治
[牛若丸 弁慶 五條大橋の出会い]
京の五條の橋に毎夜雲突く計りの大入道が現れ何の遺恨か武士とみれば刀を取り上げ拒めば斬り捨てる
との風評が京童の口に伝えられ、昼は通るが夜は誰も通らなくなった。ある夜、黒塗りの下駄をはいた
稚児姿の少年が笛を吹きながら橋に差しかかり入道が立て掛けた薙刀をけとばした。これを見た入道
烈火のごとく憤り薙刀を取って斬りかかれば少年は飛鳥のごとき早業をもって遂に入道を降伏せしめた。

2003年11月11日
大屋根左 [欄間]日吉丸 矢作橋にて小六に出会う [幕板]熊谷次郎直実 敦盛を呼び戻す
[日吉丸 小六の出会い]
三河岡崎の矢作橋の上で、行脚に疲れた日吉丸が前後不覚に寝入っていると、通りざまにその頭を蹴って行く
者があった。橋板を踏み鳴らしてやって来た小六の一行である。「やいやい、よく気をつけて歩けここを通るなら、
目をあけてお辞儀して行け」眠りを起こされた日吉丸は、起きあがって、向こう見ずの勇ましいたんかを切った。
当時無頼でならした小六であったが十二、三歳くらいの子供の胆力に負けて、足蹴にした無礼を詫びた。
そうして、向こう意気は強いがまだ幼い日吉丸に、小六もひとかたならない関心を寄せた。

[熊谷次郎直実 敦盛を呼び戻す]
一の谷合戦で西の城戸に一番乗りした熊谷次郎直実は、沖の軍船に馬を泳がせ逃れ行く一人の武将を見つけた。
鶴の縫い取りをした直垂に萠黄匂いの鎧を着て、鍬型打った兜、金覆輪の鞍を置くといった姿は、一目で身分のある
将と悟り、扇を高くかざして、「敵に後ろを見せらるるとは見苦しや。返させたまえ、返させたまえ」と呼ばわった。
その声にいさぎよく引き返し組討ちとなり、熊谷が組伏せて首を掻こうとしたが、相手が十五、六歳の薄化粧も匂う
ような美少年であったので躊躇したが、味方が近くまで来ていたので見逃す訳にも行かず若武者を討ってしまった。
討たれた若武者は平敦盛十七歳であった。その後、直実は武門の無情を感じ、髪をおろして高野山に登った。

2003年11月11日
大屋根右 [欄間]日吉五郎助 馬に乗る [幕板]宇治川の先陣争い
[宇治川の先陣争い(宇治川の合戦より)]
朝日将軍の異名をとった木曽義仲と源義経との宇治川の合戦に於いて、義仲は瀬田と宇治に架かる橋を落とし
岸に柵を水中に杭を巡らし防御体制をとっていた。この時宇治川に馬を躍らせ先陣を競う若者が二人、先頭を
梶原源太景季が磨黒(するすみ)に打ち乗り、続くは佐々木四郎高綱が「いきずき」に乗り先陣を争った。両名とも
頼朝公より拝領の名馬で、高綱はもしこの合戦で手柄を立てなければ、生きて再び頼朝公に会いませんと誓った
面目上、是が非でも一番乗りを果たしたい。そこで高綱は一策を案じて「梶原殿、貴殿の馬の腹帯が緩んでいる
ようだ」と言った。謀られたとも知らず梶原が馬を止めたとき、高綱き梶原を追い越し対岸に飛び上がりざま
「宇多天皇より九代後胤。佐々木三郎秀義が四男、四郎高綱宇治川の先陣仕る」と名乗りを上げた。

2003年11月11日
小屋根左 [欄間]楠木正行 如意輪堂に辞世の歌を記す [幕板]粟津合戦 巴御前の勇姿 [縁葛]唐子 遊び
[楠木正行 如意輪堂に辞世の歌を記す]
四條畷の決戦の前に、楠木正行は吉野南朝、後村上帝に謁し、最後の別れをしたあと、亡き後醍醐帝の
御陵に参拝した。そして北側の如意輪堂の壁板を過去帳にみたて、一族一四三人の名を矢じりで刻み、
「返らじと兼ねて思えば梓弓、なき数にいる名をぞとどむる」と辞世の歌を記し、髪を切って仏殿に投げ入れて
戦場へと向かった。高師直らの足利軍を迎え撃ち、最後は弟正時とともに自害する

[粟津合戦 巴御前の勇姿]
木曽義仲の愛妾」である巴御前は、愛する朝日将軍木曾義仲のそばを離れず、武将としても男勝りの活躍で
義仲を助け、しばしば戦功を立てる活躍をした。

2003年11月11日
小屋根右 [欄間]楠木父子 桜井の別れ 菊水の刀を授ける [幕板]木曾義仲の戦い [縁葛]唐子 遊び
[楠木父子 桜井の別れ]
建武二年(1335年)反旗を翻し京都に攻め上がって来た足利尊氏は、正成にいったん九州に敗走させられたが、
再び京都に攻め上がって来た。これを迎え撃つべく正成は延元元年(1336年)五月、自らの死を覚悟して湊川に
挑む。その途上、桜井にて同行を願う嫡子正行に「一族郎党一人でも生き残って飽くまで朝敵を滅ぼせ」と悟して
河内へ帰す。「青葉茂れる桜井の・・・」の唱歌で有名な場面

[木曾義仲の戦い]
義仲は最後の一戦にのぞんで巴御前に向かい、「木曾の最後の軍に女を具せられたりなんど、言はれん事こそ
口惜しけれ」と語って彼女に落ち行くよう命じたが、巴は仲々行こうとせず、ちょうどそこへ30騎ほどであらわれた
武蔵国の御田八郎師重という大力の武将をむんずとつかんで馬から引きずり落し、首をねじ切って捨て、それから
鎧を脱いで東国の方へ去って行った。範頼の先鋒軍に阻まれ、ついに今井兼平と二人になり、義仲は心静かに
自害しようと松原をめざして馬を乗り入れたところ、日暮れ近くであって薄氷も張っており、深田とも知らずにはまり
こんで身動きならず、その時飛んできた流れ矢に射られて馬から落ち、追ってきた石田為久に首を討たれた。
年三十八才であった。

2003年11月11日
[左]熊谷次郎直実 [右]佐々木四郎高綱

2003年11月11日
[左]巴御前 [右]木曾義仲

2003年11月11日
大屋根 桝合(正面)
天照大神は弟神素戔嗚尊の度重なる暴挙を怒り、天の岩戸にお隠れになり天地は闇となった。
八百万神々は困り果て相談した結果、笛や太鼓を奏し、天鈿女命に踊りを踊らせ、常世長鳴鳥を鳴かせて
大神を誘い出そうとした。大神は外は闇である筈が皆は何故楽しく騒いでいるのであろうかと思われ、
少し岩戸を開けて見られたところを力持ちの天手力男命が岩戸を開いて大神を外へ出し、天地に再び光が
戻ったという。

2003年11月11日
大屋根 桝合(左面)
悪行行為をして高天原を追放された素戔嗚尊は出雲国肥の川上流で老夫婦と一人の娘が嘆き悲しんでいるのに
出会い、事情を聞くと、老夫婦は「八つの頭がある大蛇が現れ、八人あった娘も毎年一人づつ七人まで呑まれて
残り一人となって、その娘も呑まれる時が迫って来た」と言う。話しを聞かされた尊は「私が退治してやる」と
八つのかめに酒を用意させ、大蛇の現れる時を待った。すると雨風激しく稲光する中、大蛇は恐ろしい姿を現し、
用意させた酒を飲み酔い潰れた。この時、尊は十握剣を抜き大蛇をずたずたに切り裂き退治された。
尾の方からは剣が現れ天照大神に献上する。三種の神器の一つ天叢雲剣である。そして尊は娘(櫛稲田姫)と結婚する。

2003年11月11日
大屋根 桝合(右面)
第十二代景行天皇の皇子、日本武尊(倭建命)が、まだ小碓命と名乗っていた時、女性に化けて熊襲を征した。
その後、東国蝦夷を平定しに行く途中、駿河で賊に欺かれて狩りをしている時、野に火をつけられたが、かつて
素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時、その尾から出て来た叢雲の剣で、傍らの草を薙ぎはらって難を逃れた。
これにより、この剣を草薙の剣と称するようになった。
なお、三種の神器の一つである天叢雲の剣は、源平壇の浦の合戦で、安徳天皇の入水と共に海底に沈んで
しまい、義経の探索にもかかわらず発見されることがなかった。

2003年11月11日
大屋根 桝合(後ろ正面)

2003年11月11日
小屋根 桝合(左面)
仲哀帝と共に神功皇后は熊襲反乱の征伐に向かわれるが、筑紫国香椎で帝は崩御された。
帝の崩御を秘し身重の皇后は男装され熊襲反乱の後押しとされる新羅に向けて筑紫の松浦より出航された。
その堂々たる軍を見た新羅王は一戦せずして降伏する。
そして皇后は凱旋の途中、筑紫国宇弥で皇子を平産される。御名を品陀別命、後の応神帝である。

2003年11月11日
小屋根 桝合(右面)
雄略帝五年の春、帝が葛城山にて狩をしておられたところ、大きな猪が草群から飛び出して、お供の人々を
追い回したが、帝は弓で猪を突き倒し足を上げて踏み殺したという。

2003年11月11日
小屋根 桝合(後ろ正面)
神日本盤彦命は大和平定のため、日向国を東へ海路数年を経て紀伊国熊野に上陸し、大和を目指したが、
道中険しい山中に入り行路を阻まれた。その折八咫烏という霊鳥が現れ、この導きにより無事大和に入られた。
大和に入った命は幾多の戦を重ねるが、長髓彦征伐の激戦の時、金色の鵄が飛来し御弓の上弼に止まった。
大和勢はその光に目が眩み戦意を失くし降伏する。この後命は大和橿原に於いて即位され人皇初代神武
帝となる。

2003年11月11日
小屋根 獅噛み 懸魚
獅噛みは魔よけ、懸魚は火伏せの意味が有ります

2003年11月11日
本幕 左
白虎

2003年11月11日
本幕 右
青龍


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